『恋人に親の姿を求めない方が良い』
この一文を読んだ皆様はこの時点でどう思っただろうか。
「付き合うなら親みたいに優しい人が良い」
「恋人にはドキドキしたいから、親の姿を求めるわけがない」
こう考えた貴方はおめでとう。
おそらくこれからの話は貴方には関係ないかもしれない。
ただ、少し待ってほしい。
これからする話は貴方の未来の恋人当てはまる話かもしれない。
恋人に親の代替を求めた、自己肯定感が低いアラサーの戯言に、ほんの少しだけ耳を傾けてもらえると幸いである。
自己肯定感とは
近年インターネットでよく聞く言葉ではなかろうか。主に「自己肯定感を上げよう」といった趣旨で使われることが多い。
私が少し勉強した『交流分析』においては、『OK』といった言葉で表現され、次のように説明される。
「自分はここに存在していい」という自尊感情の原点であり、「私は明日に向かって生きていける」という自信の土台となるものだと。
そして、その土台は次のように形成されるのだという。
ー我々は赤ちゃんの頃から、周囲の人に抱っこされ、頬ずりをされ、愛情溢れる関わりを受けることで形成されるのだー
ーそれはまるで、丁寧に育てられた花のようにー
ここで言う愛情とは無償のものである。赤ちゃんは「申し訳ありませんが、母乳を吸わせていただけませんか。対価はお手伝いで支払わせていただきます。」なんてことは言わない。赤ちゃんの存在その物に対し、親を代表とする周囲の人は愛情を与えるのである。
自己肯定感は育てられるのか
では、このような自信の土台を自ら能動的に形成するためにはどうすればいいのか。
身も蓋もないことを言ってしまえば、それは難しく、結局は育った環境に依存してしまう。
植えられた植物は自力で土から移動できないように、我々人間も最初に育てられる場所は選べない。
栄養や日光があまりない土地で育った植物があるのと同じように、幸運ではないことに、あまり愛情を受けることなく育ってしまう人間もいる。
ここから少しだけ筆者の話をさせていただく。
私も自分をあまり良い土地で育った人間とは思えない。
親から愛をもらわなかったのか?と問われれば答えはNOだ。ただし、少し愛のもらい方が特殊であった。
結果を出さなければ褒められなかったのである。
野球をしていたが、ヒットを打てなければ褒められない。
勉強においても、テストで良い点をとらなければ褒められない。
そこにおいて、どれだけ真面目に練習・勉強をしたかという過程や、私自身の存在には目を向けられなかったのである(親の意図はともかく、受け手である私はそう感じていた)。
ーはたして私はこの世に存在して良いのだろうかー
さて、少し話が逸れたため本題に戻そう。
恋人から親の愛をもらおうとする貴方に
環境によって自信の土台が形成されていない者は何かが物足りない気がする。そして、何か足りないそれを渇望する。
ある者は、自らの身体を物理的に傷つけたり、ある者は自暴自棄になったり、彼らはあらゆる方法でそれを誤魔化し、埋めようとする。
ある者は「あなたのことを好きだ」そう言って、愛してくれる者に対して、『恋人に対して、親の姿を求めてしまう』。
「無償の愛を頂戴」「私のことを全部理解して」「素の私を全部愛して」
仕方のないことではある。人間はそんなに良くできてはいない。お腹が空いたらご飯を求めるように、愛情が足りていなければ、自信の土台が足りていなければ、それを求めるのである。
もっとも、恋人は血の繋がりもなく、あなたを育てる義務もない。
恋人を越えた夫婦であったとしても、日本の離婚率は35%を越えるという。
法である程度縛られているはずの夫婦が離婚という道を選ぶ現在において、血の繋がりもなく、縛られていない恋人が無償で愛をくれる可能性はどれほどであろうか。
我々はどうしてもこの事実と向き合わなければならない。
基本的に人間関係はgive and takeであり、与えるものがあるから与えられるのである。
それを自覚しなければ、筆者のように、長年愛を注いでくれた素敵な恋人が、自らのそばから離れることになるのかもしれない。
泣いてもすがっても、気づいたときには手遅れ。覆水盆に返らず。
『ただ、私の存在を認めてほしいだけなのに』
もし、あなたの心が私と同様にそう叫んでいるのであれば、私はそれを理解できるし、同情してあげたい。
ただ、その欲求を満たすためには、思った以上にハードルが高いのかもしれない。
では、我々はどうすればいいのか。
それは正直私にも分からない。
申し訳ない。
私も現状にもがき続けている一員なのである。
ただ、哲学者ソクラテスが、「自分に知識がないことを自覚することが重要である」として『無知の知』を唱えたように、「自分が、愛する恋人が、もしかしたら自信の土台を形成できていない」ことを知覚していれば、何か変わるかもしれない。
私より賢い方であれば対処法が見つかるかもしれない。
この文章がその知覚のきっかけになれば嬉しいと思う。
さいごに
とはいえ、ここで終わりにしてはあまりに救いがない気がする。
著者は物語においてはハッピーエンドが好きなので、最後に私の支えとなっている話を添えておきたい。
栄養が豊富すぎる土地で育てられた果物は糖度が高くならない。
逆に育つかギリギリの栄養状態で育った果物はとても甘くなる。その塩梅を探すのに懸命な農家もいるのだとか。
私が最初に話をした植物と人間の話の対比を持ち出すのであれば、粗悪な環境でも諦めず花を咲かせ、実をつけた人間はとても甘く魅力が溢れ出ることだろう。
言葉遊びと言われればそれまでだが、少し筋が通ったお話であると私は信じている。
ここまで読んでくださった皆様や周囲の大切な方が甘い果実をつけられるよう、幸せになれるよう、日本のどこかから私も祈っています。
べいべい
出身:愛知
学歴:専門職大学院修了
職歴:塾講、サービス業等
趣味:心理系の本を読むこと、料理、ゲーム、化粧、勉強
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